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アポロ・シー号事件 ふれあいペンギンビーチ〜その3〜

2010 年 2 月 16 日 火曜日

1994年6月下旬。南アフリカ、ケープタウン沖で、その前年に沈没していた鉱石運搬船アポロ・シー号から、大量の燃料用重油が流出し、テーブル湾を襲った。
重油の黒い帯は、やがてペンギンたちの主要な繁殖地、ダッセン島やロベン島に魔の手をのばす。いわゆる「アポロ・シー号事件」である。
事件発生から2カ月間。現地南アフリカ国内はもちろん、世界中から多数のボランティアが駆けつけて、被害を受けた動物たちを救い、汚染された海岸の浄化作業にあたった。

私は、1987年以降サンコブメンバーと情報交換を始めていた。88年には、ニュージーランドで開かれた第1回国際ペンギン会議(ペンギンに関する世界初の国際会議)で、南アフリカの研究者と意見交換し、「何か起きた時には必ず支援する」ことを約束してもいた。アポロ・シー号事件の第一報は、その研究者からのものだった。

「とにかく、ひどい!まだ不正確だが、おそらく万に達するペンギンが被害を受けているだろう。何もかもが足りない。情報、人手、場所、道具、薬、餌の魚、洗剤…。何をしてもらえるかな?できるだけ早い方がありがたい。」

この時点で「野生のケープペンギンは16万羽しかいない」こと。その個体数は急速に減少しつつあること。減少の主な原因は人間にあること。そんなことがわかっていた。たった一度の油汚染事故で、この世に16万羽しかいない海鳥のうち、1万羽が死んでしまうかもしれない。しかも、長年にわたって人間に虐げられてきた末に。

「理不尽だなあ!!」と心底思った。しかも、あのアポロ・シー号の最終目的地は日本だったという。インド航路は、決して過去の海上ルートではない。スエズ運河が船舶の巨大化と中東戦争の泥沼化・長期化でかつての輝きを失った今。ケープタウン沖を通る「海の道」は、世界第2位の経済大国と、ヨーロッパ、アフリカとを結ぶ新しい「海上動脈」になりつつあるのだ。
ここを通る船舶が大型化すればするほど、一旦事故が起きると致命的な被害が広がる。しかも、昔も今も、ケープタウン〜希望峰沖は世界屈指の「海の難所」だ。ケープペンギンたちの苦難は、地球の反対側で生活している私たち日本人とも、遠くて長いが、決して細くはない糸で結ばれている。

「わかりました。まず、日本で募金活動をして資金援助します。次に、私が直接そちらに伺い、微力ですがお手伝いすると同時に、現状を観察・記録して日本に伝えましょう。」
話は決まった。

300万円相当の米ドルの札束を渡してほっとした私は、「ペンギン洗い」に燃えていた。重油を浴びたケープペンギンを2人がかりで懸命に洗うボランティアの姿が、日本の新聞でも海外メディアを通じて紹介されていたから。「あれがやりたい!」そう意気込んでいた。
だって、日本の飼育下では「ペンギンを洗う」必要はまずない。貴重な体験でもある。正直に言えば、少し興味本位なところもあった。「ペンギンに触りまくりじゃん!」的なノリである。 支給された「防水ユニフォーム」に身を固め、ゴム手袋をして「いつでも来い!」と身構えていると、さっきのパトリシアさんが戻ってきた。彼女はあきれたように両手を腰にあて、「ダメダメ!」と言う。「餌やりが今日のあなたの仕事。」

なあんだ、洗わないのか。そういう不満そうな表情をしたのかもしれない。
「餌やりが、今、一番の問題なの。これを順調にこなせれば、あなたが来週日本に帰る前に、回復した個体をかなりリリースできるかもしれないのよ。」

ペンギンたちに食欲がないのだという。その時、レスキューセンターには700羽ほどのペンギンが収容されていた。事件発生からすでに1カ月半が経過し、さすがに運び込まれてくる海鳥の数は減っていた。7月中旬までは、連日400羽以上の個体が追加され、最盛期にはここだけで数千羽がひしめき合っていたそうだ。私が着いた8月中旬までに、9000羽近くが順調に回復し、ふるさとの海に戻されていた。しかし、死亡数も3000羽を超えていた。

収容からリリースまでの作業の流れは、ざっと次の通り。
まず、収容された個体が重油を呑み込んでいないか確認する。呑んでいる場合は、直ちに胃洗浄。呑んでいない場合は、体力のあるものは「ペンギン洗い」へ。弱っているものは「ペンギン洗い」に耐える体力と気力が回復するまで、強制的に給餌する。ミンチ状にした魚肉にビタミン剤を加え、カテーテルと注射器で直接胃袋に注入する。「ペンギン洗い」が終わった個体は、通常の餌を与えつつ、毎日2回、プールで遊泳訓練。その間、羽毛の防水性の回復を確認したり、血液検査を繰り返したりして体力の回復をはかる。

しかし、最近収容される個体は体力消耗が激しく、こちらが与える餌の「食い」が芳しくない。1つの区画に集められた150羽あまりの個体が、「上田の担当」ということになった。
「この子たちはね、強制給餌に強い拒否反応を示すの。たいていは、きちっと保定(ペンギンを暴れないよう保持すること)してクチバシに魚を入れてやれば、飲み下すのよ。」

パトリシアが隣の区画に視線を投げる。そこでは、男女合わせて5人のボランティア達が、思い思いの姿勢でペンギンを保定し、強制給餌していた。ペンギンたちは食欲旺盛だ。
「でも、こっちの子たちは、魚を一切うけつけないの。与えてもすぐに吐き出そうとするし、無理に続けると急にグッタリして、ひどい時はその場で死んでしまう。」
彼女の言葉がつまる。きっと何羽も死んでいったんだね。

「でも、時間との闘いよ。体力の限界がくるのが早いか、あなたの給餌が成功するのが早いか。私はこれから血液検査の準備があるから、これで行きますね。あとはよろしく。」
よろしくって言われてもなあ。「さて、きみたち。どうしたもんかねぇ?」侵入者を警戒して、周囲のフェンスに身を寄せあっているペンギンたち。たしかにオドオドしているね。その時、数十羽の「ペンギン団子」の足下に、1羽のびているのに気づいた。もう動かない。まだ若い個体だ。

レスキューセンターの事務所の裏手にある「死体置き場」に運ぶ。ペンギンがずらっと並んでいた。ざっと20体。獣医が1人、黙々と解剖している。それを見学。どの胃の中にも小さな重油の粒やシミが、黒々とわだかまっていた。
「新顔だね。日本人かい!珍しいな。君が初めてだよ。地球のあっちから大変だったろうが、こっちもえらいことさ。どうだい、まるで野戦病院だろう?君が担当する区画は、無理をしないことだ。半分助かれば上出来だと思った方がいい。」
私よりちょっと年長らしい逞しい獣医は、そういうと手術用の手袋を脱いで握手を求めた。

「獣医のグラハムだ。よろしく頼む。餌やりの合間に採血とペンギン洗いも手伝って欲しい。」やっとペンギン洗いというセリフが出た。しかし、気持ちは沈んでいた。「洗ったって、食べなきゃ死ぬんだ。」そう思うと、あの痩せたペンギンたちの、オドオドした瞳の群れが、まだ時差ボケが抜けきらない網膜によみがえった。

コメント / トラックバック 2 件

  1. 新山 より:

    上田さん、貴重な体験談をありがとうございます。
    重油流出の話はよく耳にしますが、現実を見聞きしてきた方の話はやっぱり重いですね。
    続きを期待しています。

  2. 上田一生 より:

    新山 様
    コメントありがとうございます!この時の光景は、いまだに夢に見ることがあります。数百、数千という単位のペンギンの生き死にを直接扱っていると、「種の命」と「個体の命」について、真剣に考え即座に決断しなければならない局面に、日常的に立たされます。決して華やかでない、つらい作業でした。
    これからもご意見をよろしくお願い申し上げます。

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