「1年という時間のなんと無意味なことか」…と、最近つくづく考えることについて

2012 年 3 月 1 日 木曜日

11日は、「東日本大震災一周忌」です。1年間!あの突然の天災と人災に翻弄されてから、もうそんなに時間がたったんですね。

あの日、混乱と炎と大津波の中で命を落とされた多くの方々、そして、その後のながいながい「放置状態」の苦痛の中で、ひっそりとしかし怨みをのみながら息をひきとられた多くの方々の霊に、心からの哀悼の念を捧げます。

また、肉親、知人、仲間を失い、大切な家庭や職場や学校を失い、意思に反して故郷を追われた多くの方々に、改めて心からのお見舞いを申し上げます。

今、福島県だけで、日本には16万人以上の難民がいます。国政をあずかり、国民の生命と財産を第一に守るべき義務を負っているにも拘わらず、なんとついに1年もの間、その最優先すべき職務上の義務を果たそうとしない無能・無恥・無責任な政府、政治家の無策が、さらに何人もの国民の生命・財産を新たに奪い続け、なおも先の見えぬ苦痛と命の危険の中に放置し続けている現状を思う時、絶望的な無力感に苛まれます。

このブログで、私は、大震災直後から叫び訴え続けてきました!!遅い!!遅い!!遅い!!…、とにかく絶望的に遅い!!私の知るマスコミ関係の方々は、ほとんどが、「多少の遅れはやむを得ない」という反応でした。改めて問います。それで本当にいいんでしょうか?本当に、今でも、震災直後の初期対応の遅さや重大な決断の遅延が、より多くの人命を、ちょっとでも迅速果敢に決断し行動していれば救えたはずの人命を、結果的に救えなかった言い訳として、「やむを得なかった」という言辞を弄するだけで看過していいんでしょうか?

地下に眠る、そして、まだご遺体も収容されていない同胞の御霊を前にして、また一方で、日々の暮らしに苦しみもがいていらっしゃる難民や瓦礫すら片付かない被災地で必死に生活の基盤を確立しようと格闘していらっしゃる方々を前にして、本気で「やむを得ない」という一言を言えるのでしょうか?

ある国では、政府が国民を無差別に殺害し、多くの難民を生み出しているそうです。そういう事態には眉をひそめ、厳しく非難するマスコミやいわゆる知識人や人権活動家が、なぜ、この日本でも、今まさにほぼ同じ事態が進行中だという事実を厳しく指摘し、同胞の生命と人権とを守るため、体を張って然るべきキャンペーンを展開しないのでしょう?

「絆」という魔法の言葉が蔓延し、全ての悲惨さや理不尽な仕打ちをうやむやにしている感が否めません。例えば、そんなに「絆」を訴えるならば、被災地の首長や被災者の方々が常に訴えている「瓦礫処理」を一部引き受けて、その「絆」とやらを見せて欲しいものです!!

たぶん、今の「絆」には、「喜びも悲しみも苦しみもともにする」という意味は含まれていないんでしょう。残念な話です。

あの日から1年という節目を前にして、本来ならばもっと冷静でなければならないのでしょう。しかし、今日は、どうしても、心の中に蟠っている怒りを乱暴にぶちまけてしまわないと、気がすみませんでした。

最近、次々に公表される「実は、あの時には…」という「報告」を目にし、耳にしていると、日頃から「保全・救護」という迅速・的確さを常に要求される活動に携わっている関係上、いろいろ理不尽な感慨をもつことが多いのです。

さて…、不満をぶちまけた以上は、自ら「実のある支援活動」を再開しなければなりません。様々な業務で中断を余儀なくされておりましたが、いよいよ次の支援活動準備に入りたいと考えております。

皆様の、お力添えを、今後ともよろしくお願い申し上げます!!

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