2011年3月11日を改めて少し真面目に、リアルにふりかえる〜その2〜

2011 年 5 月 11 日 水曜日

今回は、2ヶ月前の2つの出来事を振り返ってみたいと思います。1つは、関東での帰宅状況のことです。勤務している学校での「緊急警戒体勢」が少し緩められた後、私は、11日の午後5時頃から、被災地の知り合いに「安否確認メール」を送信し始めました。
以下のメールは、12日に届いたペンギン会議女性スタッフからの返信です。一部改変しましたが、11日の「関東での帰宅事情」がわかると思います。
(以下にメールを一部改変してご紹介します)

「西区にいて揺れたけれど、私は出先だったので、ことの大きさがよくわかっておらず、職場に戻り、交通機関がとまっていることを知りました。

こどもがいるため、少し早めの4時すぎにでて覚悟して歩いて帰りました。
まともに歩くと4時間強かかるのは動員訓練をして知っていたので、必死に小走りで急いだら、途中転んで膝と手のひらすりむいて、泣きそうでした。

携帯はつながらず、道も自信なく、不安でしたが、二時間半歩いたとこでタクシーがやっとつかまり、7時には保育園のお迎えに行けました。
金沢区が停電してると知らず焦りましたが、懐中電灯とろうそくの中、パンかじりました。

今回自宅は無事とはいえ、きちんと備えておらず、こどももいるので、ちゃんとしなきゃと反省しました。
昨日は帰れなかった方も多かっただろうし、今日もまだ落ち着かないけど、皆さんお気をつけて!」

共働きで、子どもを保育園等に預けている場合は、大変な思いをしながら、職場からその日の内に帰りつき、子どもと共にわが家に戻らなければならなかった訳です。当然、この間も、間断なく、強い余震が続き、関東地方の太平洋岸には津波が押し寄せ、海岸地方と一部内陸では酷い液状化現象で、全てのインフラが停止したのです。

以前にも記しましたが、私の勤務高校は、幸いにもインフラ破壊や途絶はなく、一晩、余震に揺り起こされながら学校で生徒達と過ごし、12日の昼頃から「帰宅」を開始しました。

実は、あの11日の朝、私は自分で眼鏡フレームを折ってしまい(本当に、なんの前触れもなくパッキンと折れたのです)、眼鏡なしで出勤していました。
午前10時過ぎに、妻から写真のような「眼鏡店で発見したぺもの映像」を送ってもらい、「明日これをブログで紹介しよう!」等と、ノンビリ考えていたのです。

眼鏡店で発見したぺもの映像

皆様全てが、「あの日」には、様々な思いを懐いていらっしゃると思います。また、改めて、「あの日」とこの2ヶ月を語り合ってみる。そんな時間が持てれば良いですね。

コメント / トラックバック 5 件

  1. だざい より:

    みなさまこんにちは。
    宮城県在住だざいです。
    私たちが暮らす宮城県は、十数年以内に99%の確率で大地震がくると言われ、警戒していた地域でした。
    私が幼少の頃に経験した宮城県沖地震は三十年過ぎた今でも鮮明に覚えています。
    また、三年前の岩手・宮城内陸地震。
    私の勤務地が被災し、復興に苦労したことは昨日のことにように思い出されます。
    さらに、私の実家では、7〜8年前に大きな地震にあい、近隣の町も含め相当な被害がありました。

    私が現在居住している家屋は、宮城県でも内陸部にあります。
    大崎平野と言われる農村地帯です。
    我が家の裏手は、国、県、町が急傾斜地として危険区域に指定しているエリアに含まれます。
    入居にあたっては、この土地が崩壊するようなら県内全域に甚大な被害が及ぶと予見しておりました。
    結果、我が家の裏手は崩壊し、家屋の一部の主要構造部、基礎の崩壊により全壊扱いとなりました。
    そして、周辺地域はもちろんのこと宮城県東部が壊滅的ダメージを受けました。
    津波の被害がクローズアップされておりますが、平野部でも甚大な被害が出ております。
    道路は通行止め、応急処置の砂利道のため車での移動も困難がつきまといます。
    確かに沿岸部の方達は、津波により家屋、家財など大切なもののほか、尊い命まで奪われてしまいました。
    生きながらえた方達も未だなお苦しい生活を余儀なくされています。
    その点から言えば、私たちは被害のうちに入らないと思えるほどです。

    今、生きて、なんとか暮らしを営んでいることは、この激甚災害の地域では幸運なことだと思っています。
    国、県、町の対応に不満もありますが、私たちのために力になってくれている方々が大勢いらっしゃることには感謝してもしきれいなほどです。
    本日、町役場に全壊のり災証明をもらいに行ってきました。
    役場職員の対応は大変あたたかみがあり、救われた気持ちです。
    これからの生活をどのようにしていくか、それが今の私に課せられた使命ですが、命あっての物賜。

    今回の大震災で被った被害は人それぞれ痛みは異なりますが、せめて国会議員の皆さんには歳費削減、議員年金廃止などの英断を下して、被災地の復興のために心血を注いで欲しいと切に願います。

  2. kochan-mama より:

    だざい 様

    松島でお世話になりました、東京都在住kochan-mamaです。
    このたびはご無事で本当に何よりでした。
    先日来、被災地から生の情報を発信してくださって、久しくお目にかかっていない私たちにもご無事な様子が確認できてとても心強かったです。

    そして、我らが「マリンピア松島水族館」が無事再開できたことは本当に喜ばしいです。
    GW中の人出も例年並みだったとのことで、良かったです!

    また、松島でお会いしたいですね!

  3. 上田一生 より:

    >だざい 様
    貴重なコメントを、本当にありがとうございます!
    まさに、太宰さんの仰る通りです!!3年前の内陸地震では、だざいさんと共に訪ねたあの素晴らしい「ランプの宿(温泉)」が犠牲になりましたね。だざいさんご自身も、大変なご苦労をされました。
    だざいさんが「マリンピア松島水族館のリニューアル推進」に熱心に取り組まれてきたのも、度重なる「宮城県での大地震」を何度も、身をもって経験され、その度に筆舌に尽くしがたい辛苦を経験されてきたからなんですね!
    昨日も、お電話で「罹災証明」を手にされたと伺い、本当に安心致しました。そして、素晴らしいご提案もいただきました!今後、宮城県や被災地の皆様の生活復旧のため、微力ですがお手伝いして参りたいと思います。
    ださいさん!どうぞよろしくお願い申し上げます!!

  4. だざい より:

    >kochan-mama様

    ご心配ありがとうございます。
    さすがに二ヶ月も過ぎると、たまっていた疲れがどっときますね。
    友人知人でも、体調崩している方がいます。
    まだまだ心も体も被災しているんですね。

    さて、被災地の現在の状況を少しですがお知らせいたします。
    まずは、マリンピア松島松島水族館ですが、幼稚園の遠足での利用がはじまりました。
    私が訪れた13日の金曜日(映画のタイトルじゃないですよ)には、大型バス三台が松島水族館前に停車していました。
    沿岸部を敬遠する見方もあるようですが、なんとか遠足の定番である松島水族館に足を運んでくれる幼稚園、小学校などが増えるといいですね。

    続きまして、仙台空港近辺を走ってみました。
    飛行機の発着はありますが、アクセス鉄道が一部区間不通のため、仙台駅直通バスでの陸路移動となります。
    そして、空港近辺の被害のすさまじさ。
    さほど大きくない川が空港近くを流れていましたが、今は大河のようです。
    民間駐車場やレンタカーなどの敷地、ビルなどは壊滅状態。
    津波に流された自動車が高々と積み上げられてています。

    通称、産業道路と呼ばれる仙台港周辺の道路も走ってみました。
    並走する45号線と比ると、海に近い分被害はそうとうなもので、45号線を含め営業できている店舗はほぼありません。
    このエリアに松島水族館新設の計画があったのですから、もし…を考えると恐ろしくなります。

    宮城県の玄関口となる、仙台駅、仙台港、仙台空港を全てみてまわりましたが、機能はまだまだ回復しているとは言えません。
    県外からおいでになる方達には、まだ目を覆いたくなるような景色がありますが、復興は着実に進んでいます。
    少しずつですが、活気は戻ってきています。

  5. 上田一生 より:

    >だざい 様
    お忙しいところを、細かい情報をいただき、本当にありがとうございます!
    今後とも、少しでも東北の復旧のお手伝いができますよう頑張って参りますので、何卒よろしくお願い申し上げます!

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